カンノンカメラ(Kwanoncamera)

 「キヤノン」の語源が観音さまにある事は良く知られています。キヤノンの前身の「精機光学研究所」が東京六本木に設立されたのが1933年(昭和8年)であり、その設立の目的はライカやコンタックスに対抗できる35ミリ高級カメラの国産化にありました。設立者は吉田五郎氏で、カンノンの名前は彼の信仰にちなんでいます。映画カメラの技師だった吉田は上海にて出張中にライカを購入した際にアメリカ人より「なぜ日本人はカメラくらい作れないんだ?」と質問され「ならば自分で作ってみよう」と思い立ったといいます。吉田は妹の亭主だった内田三郎氏をスポンサーに呼び込み会社を設立、翌1934年(昭和9年)に「アサヒカメラ」誌上で発表されたのが有名な「カンノンカメラ」です。
 カンノンカメラの正体は謎に包まれており、著名なクラシックカメラ研究家である粟野幹夫(カメラコレクターズニュース第1号第2号)上山早登(精機光学キヤノンのすべて/フォトフォーラム社)宮崎洋司(キヤノンレンジファインダーカメラ/銀座カツミ堂写真機店)ーいずれも敬称略ーが考証を加えているがどの本も解釈にズレがありどれが信用できる筋の情報なのかわかりにくかったのですが晩年の小倉磐夫が「アサヒカメラ」連載「写進化論」にて語ったカンノンカメラの顛末がどうやらもっとも信用できるようです。ご興味のある方は朝日選書684「国産カメラ開発物語」(小倉磐夫)をご一読ください。
 とにかくこの本によるとあのアサヒカメラの広告写真は実物大模型ではなく実写可能な試作機だったそうです。
 しかし「アサヒカメラ」に掲載された発売予告広告とは裏腹に開発は遅々として進まず、考案者の吉田氏は責任を負わされる形で研究所を追い出されます。内田は当時の日本光学(現ニコン)に技術支援を求めカンノンカメラは大幅に改良が加えられ、翌1935年(昭和10年)暮れに「キヤノン標準型(ハンザキヤノン)」として発売。今日へと続く世界最大のカメラメーカーの第1歩を踏み出したのです。
 当時のアサヒカメラの広告によるとスペックはこのようになっていました。なお、巻き戻しノブがないのは付け忘れではなく(笑)アグファカラート用のダブルマガジンフィルムを使う予定だったからです。

分類:35ミリ距離計連動式フォーカルプレーンシャッターカメラ
シャッター:(当時の広告による)横走り金属幕フォーカルプレーン
(↑実際のの試作機は布幕と思われる)
Z(バルブ)1−1/500秒、
ファインダー:2眼式連動距離計
レンズマウント:ライカLマウント
レンズ:カシャパー50ミリF3.5
     テッサー50ミリF3.5
フィルム:35ミリダブルマガジン
試作年:1934年

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「国産カメラ開発物語」(小倉磐夫著/朝日新聞社)