エクター47ミリF2


 第2次世界大戦中、ドイツからのカメラの輸入が途絶えたアメリカではレンズ交換式35ミリカメラの国産化の必要に迫られ、アメリカ陸軍はプリミエ・インストルメンツ社にライカIIIaのコピーを要請します。
 結局、アメリカ製コピーライカはこの戦争には間に合わなかったのですが、戦後もライカの品薄状態は続いたため、このカメラは「カードン」(Kardon)の名前で市販され、また軍の備品として採用されます。直後の朝鮮戦争ではカードンが軍の記録用に使用されたようで酷寒の冬の朝鮮半島でぶ厚い手袋を履いたまま操作できるようにレリーズボタンや巻上げノブを改造したボディが確認されています。

↑シビリアン(民生用)カードン。
エクター47ミリ付。
↑ミリタリー(軍用)カードン。
巻き上げノブの大径化とレリーズの高さアップが
目立つ。


 このカメラの標準レンズとして採用されたのが、このコダック製エクター47ミリF2です。
 ライカマウントのエクター47ミリF2は中古市場でも滅多に見られない珍品なのでお買い得なレチナIIのレンズによる撮影でカンベンしてください(笑)。
 何故にレチナにエクター47ミリが装着されているかというと、ライカやコンタックスが戦時中も軍用カメラとして生産が許されていたため、連合軍も戦後賠償のカタに狙っていたライツやカール・ツァイスの工場を爆撃せずに生かしておいたのに対し、ドイツコダック・ナーゲル社は戦時中カメラの製造を禁止され、あの連合軍に恐れられた88ミリ高射砲弾の時限信管作りに従事させられたため連合軍の爆撃の標的となり1944年の空爆でシュツットガルドのナーゲル社工場は灰燼に帰しました(カメラレビュー・クラシックカメラ専科84より)。過酷な第2次世界大戦後の疲弊でレンズの製造ラインがひっ迫しており、レチナIIの標準レンズとして採用されていたシュナイダーのクセノンやローデンストックのヘリゴンの供給が間に合わなかったためにアメリカ本国から緊急的にカードン用に設計したこのエクター47ミリF2が輸入されたからです。
 カメラ本体に「Made in Germany」が、レンズには「Made in U.S.A」が記入されているのが壮観で、いかにも米独共同開発であると誇示しているようです。
 イーストマンコダック社はレンズの反射防止膜コーティングの研究では世界に先んじていて、すでにこのエクター47ミリにもコーティングがなされていますが、まだ創成期の単層コートなので何やらモワ〜っとした描写です。
 これは無理してカラーで撮るよりもモノクロ専用にしたほうがよろしい。

↑作例「バロンドリロンド(謎)」
いやあ、白馬ちゃんは絵になります。カメラ構えていると目前まで寄ってきて
歯を剥き出して「ニー!」してくれました。(多分このコは雄ですね)
レチナII、エクター47ミリF2、F4、1/100秒、エクタクローム64プロ(EPR)


 レンズの説明だけではカメラがかわいそうなのでレチナの説明もさせてください。
 レチナとはドイツ語で「網膜」の意(何と適切なネーミング!)。1908年自ら同級生の友人と共にカメラ会社「ドレクスナー・ナーゲル社」を立ち上げたアウグスト・ナーゲル博士ですが、その会社が1926年に巨大財団「カール・ツァイス」に吸収合併されてしまいます。ナーゲル博士が開発したカメラはその後も「コンテッサ」「コリブリ」などの機種として残りますが、次第に巨大組織カール・ツァイスの中で自分の居場所が無い事を感じ始め、再び新会社を興そうとしました。ナーゲル博士は当時爆発的な人気を得ていたライカ・コンタックスがあまりにも高価であったため、もっと普及価格で35ミリカメラを広めたいと「Volks Kamera(国民写真機)」構想を膨らませます。安価な価格で国際的な販売チャンネルに乗せるためには業界大手の参下に入るべきとの判断からナーゲル博士は1932年に新生「シュツットガルト・ナーゲル社」を米イーストマン・コダック社の傘下に下る決心をします。「独コダック社」の誕生です。
 ライカ・コンタックス発売当初は35ミリフィルムは生フィルムを缶ごと買ってきて暗室で専用マガジンに装填して使うのが普通でしたが、イーストマン・コダックでは暗室が無い家庭でも気軽に35ミリフィルムを買ってもらおうとライカ・コンタックス両方に互換性のあるパトローネ入り35ミリフィルムを1934年に発売します。米イーストマン・コダックはこのレチナがパトローネ入り35ミリフィルムの販売拡大キャンペーンに最適な大衆向けカメラと考えたのです。そう、現代のパトローネ入り35ミリフィルムはライカでもコンタックスでもなく実はこのレチナに合わせて開発されたのです。
 そう考えると、35ミリカメラというジャンルを開拓したのはライカでありコンタックスですが、35ミリフィルムという規格を定着させたのはレチナであり、レチナが20世紀の写真史に残した影響は大きかったと言えます。
 ちなみに1953年に世界で最初にエベレスト頂上から生還したエドモンド・ヒラリー氏とシェルパのテンジン氏が頂上まで持って行ったカメラがレチナI型(テッサー50ミリF3.5付)でした。

↑1953年、E・ヒラリー氏の
エベレスト登頂を記念して出版
したレチナIIaのブックレット。
でもエベレスト頂上まで持って
行ったのは距離計無しの
レチナIでした。

レチナIIとレンズ交換式のキヤノンL2の比較。
レンズを引き出すと結構な奥行きですが畳むとほとんど
出っ張りは無くジーパンのポケットにすら入ります。
横幅はフォーカルプレンシャッター機より2センチは短い。


 エベレスト初登頂ではなく「頂上から生還」と書いたのは、ヒラリー氏の前に、ジョージ・マロリー氏がエベレスト登頂に挑戦したまま帰ってこなかったからです。マロリー氏はベストポケットコダックを手にエベレストの頂上を目指しました。そのカメラが見つかれば世界で最初にエベレストに登頂したのは誰かが判ったのですが、残念ながら1999年に発見されたマロリー氏の遺体からはカメラは発見されなかったとの事です。
 さてこのレチナ君ですが、シャッターがセルフコッキング(巻上げと連動)ではありません。ROMOスメナ8Mやフジペット35の悪夢がよみがえるのですが、意外や意外、使い勝手は悪くありません(良くも無いが....)このレチナIIはフィルムを巻き上げた後でないとレリーズボタンが下がらない設計になっているのでフィルム巻上げ前にシャッターチャージしてもシャッターは落ちずに2重写しの失敗は無いし、レリーズが落ちた後でなければフィルムを巻き上げる事が出来ないので未露光のカットを無駄送りしてしまうミスもありません。さすがドイツ人の設計だけあってミスを未然に予防する設計が行き届いています。そこまでやるならセルフコッキングにして欲しかったですが、それは次のIIa型(上のブックレットの機種)で実現します。
 こういうものだと慣れてしまえば巻上げの後必ずシャッターチャージする習慣が身に着くのでさほど気にならなくなります。極論を言えば連写機能のないフィルムコンパクトカメラのまだるっこしいフィルム巻上げやコンパクトデジカメのバッファ時間も同じ位の待ち時間が掛かります。
 特筆すべきはこのコンパクトなサイズでF2の明るいレンズを装備している点。
 レンズ交換は必要ないが高画質のレンズを搭載した高級コンパクト機が欲しいという要望は結構多いもの。デジタル時代の今日でもリコーGR−DやシグマDP1がありますが、押しなべてレンズは広角よりで明るさも2.8〜4程度。
 室内で肖像写真を撮る時など50ミリの少々長めの焦点距離でF2の明るさが欲しい方ならばまだまだレチナは選択枝に入るのではないでしょうか?
 残念ながらレチナはその後、ライカやコンタックスに近づきたいとばかりにレンズ交換式に挑戦したせいで、次第に大きく重く使い勝手も悪くなっていきます。また露出計内蔵のレチナIIIシリーズ発売後はF2級の明るいレンズはヒエラルキーの明確化から優先的にIII型に回され、II型はF2.8級が主流となって行きます。
 やはりレチナII型はレンズ固定式だからこそ可能だったコンパクトカメラなのではないでしょうか?

(←構成図)4群6枚
ガウスタイプ
画角:? 度
最小絞りF22
最短撮影距離1m
フィルター:42mm
重さ:ーーー
発売:1946年


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